「ノストラ」やらねぇのかよwww
ところで、予言も扱って特番を放送しているのだが。飛鳥昭雄が「ノストラダムスは予言を外しておりません」と言っていたが(番組未見。CMはイヤになるほど繰り返された)、映画「ノストラダムスの大予言」は放送しないのですかファミリー劇場さん?
「封印作品だから」とか逃げてんじゃありませんよ。コレやらなくて、何の終末特集ですか。放送できないなら、特集する必要ないですよ。
まったく、いっつも中途ハンパですね。
むか~し買った香山滋の「小説ゴジラ」を読んでみた(奥付は1993年12月。小学館スーパークエスト文庫)。
「~逆襲」までも含んでいるのだが、尾形の役割が、かなり新吉に振られていてビックリした。ジュブナイル、と言う方向性か。「東京ゴジラ団」は余計だったと思う(昭和20年代っぽい、と言うか「少年探偵団」っぽいが)。
巻末の映画データ(2本のみ)は、ちょっと貴重か。挿絵の代わりのスチール(?)も貴重?
「映画小説ゴジラ」(監修・田中友幸、文・海原俊平、昭和59年10月、講談社X文庫)も読んだが、本文は248ページだった(上記は262ページ)。巻末には「メカゴジラの逆襲」までの簡易データ有り。
50周年記念映画「スカイフォール」のTVCMで、「世界最長の映画シリーズ」と言われてた。
頑張れゴジラ。負けるなゴジラ。ミレニアムとかメガギラスみたいな愚作でも良いから復活しろw
量産しろw 負けんなwww
って事で「ゴジラ水滸伝」とか どーよ? いや、既に「ゴジラ忠臣蔵」は有るんだからよぉw
(吉良悪星人と戦った「怪獣総進撃」の事)
「ゴジラ西遊記」とかw
(ゴジラ=悟空、悟能(八戒)=バラゴン、バラン=悟浄、アンギラス=白竜、モスラ=三蔵)
それでも「VSギドラ」、スペゴジよりマシだと思いますwww
やっぱ「ゴジラ対メガロ」は面白いわ。少なくとも、リアルタイムに半ズボン履いてた男の子に とっては。
ヒロイン不在だけど、怪獣映画に恋愛要素は不要。
(いや、「ゴジラ」とか「~逆襲」とか「メカゴジラの逆襲」とか「フランケンシュタイン対~」とか「怪獣大戦争」とか、「恋愛要素の有る怪獣映画」も良いですけど)
70年代のゴジラ映画はプログラム・ピクチャー化しているらしく、予算は往年の1/3~1/4らしいし、「~メガロ」は最低ラインの予算で、撮影期間も3週間だったらしい。
そのせいか、恋愛要素がメインなのは「メカゴジラの逆襲」ぐらいで、「~対メカゴジラ」では添え物的(と言うか大門正明と田島玲子の役って、そうそう明確なカップルでは無いと思うが)、「~対ヘドラ」では添え物に近く、「~対ガイガン」では2名も居るのに恋愛無し、と、居る意味が「職場の花」的なレベル(いや、菱美百合子さんは好きですけど)。
判官びいき、と言う意味もあるが、無意味に女が出てくる怪獣映画(しかも役に立たなかったり、ブサイクだったり)よりは100倍マシだなぁ。
【補足】
「ブサイク」ってのは、例えば「~メガギラス」。「~バラン」、「~デストロイア」のメルメル(違)、「ゴジラ2000」は微妙。サイボット靖子は…。
調子に乗って「怪獣王ゴジラ」まで視聴。
やっぱり「~バラン」は地味だ。しかし、「日本のチベット」とか「●落」とか隻眼で口の不自由な男とか、ちょっと「~雪男」っぽい。
「フランケンシュタイン~」(2本とも)見たせいか、「~バラン」で女性記者がピンチに陥った際、雪男(orフランケン)が助けに来る…ような錯覚を覚えた。
USで過去のフィルム+新録で「雪男VSバラン」とか作って くれない だろうか?
(「●落」じゃなくて「バスも通わぬ限界集落」って語り口にする、とかならOKだと思う)
って言うか、ほとんど新録か。旧作は「過去のデータ(事実)」として一部流用、ってレベルで。
【追記】
84ゴジラを見直したが…やっぱりサイボット靖子がイタい。大根過ぎ。
とかウッカリ思いついてしまい、先週末から以下の作品を随時 視聴する羽目に。
(打ち消し線を引いている作品は、後回しにしたもの。赤字は未所有。カッコ内はタイトル外の怪獣。太字は金子修介 監督作品)
1954(昭和29) ゴジラ
1955(昭和30) ゴジラの逆襲(アンギラス)
1956(昭和31) 空の大怪獣ラドン(メガヌロン)
1958(昭和33) 大怪獣バラン
1959(昭和34) 日本誕生(ヤマタノオロチ)
1961(昭和36) モスラ
1962(昭和37) キングコング対ゴジラ(大ダコ)
1963(昭和38) 海底軍艦( マンダ、ムウ帝国人)
1964(昭和39) モスラ対ゴジラ、 三大怪獣 地球最大の決戦( ゴジラ、ラドン、モスラ、キングギドラ)
1965(昭和40) フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)(大ダコ)、怪獣大戦争(ゴジラ、ラドン、キングギドラ、X星人)
1966(昭和41) フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ(大ダコ)、ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘(大コンドル)
1967(昭和42) キングコングの逆襲(メカニコング、ゴロザウルス、大ウミヘビ)、 怪獣島の決戦ゴジラの息子(ミニラ、カマキラス、クモンガ)
1968(昭和43) 怪獣総進撃(ゴジラ、ミニラ、キングギドラ、アンギラス、ラドン、モスラ、バラン、マンダ、バラゴン、ゴロザウルス、クモンガ、キラアク星人)
1969(昭和44) ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(6大怪獣)
1971(昭和46) ゴジラ対ヘドラ
1972(昭和47) 地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン(キングギドラ、アンギラス、M宇宙ハンター星雲人)
1973(昭和48) ゴジラ対メガロ(ジェットジャガー、ガイガン)
1974(昭和49) ゴジラ対メカゴジラ(キングシーサー、アンギラス、ブラックホール第3惑星人)
1975(昭和50) メカゴジラの逆襲(ゴジラ、チタノザウルス、ブラックホール第3惑星人)
1995(平成7) ガメラ 大怪獣空中決戦
1996(平成8) ガメラ2 レギオン襲来(草体)
1999(平成11) ガメラ3 邪神<イリス>覚醒(ギャオスハイパー)
2001(平成13) ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃(バラゴン)
(「メカゴジラの逆襲」以前の作品でゴジラシリーズ以外の作品は、「怪獣総進撃」に登場した怪獣に関係する。赤字は例外)
何て言うか、「ゴジラは入れ物」と言うのはGMK(ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃)で言われてしまっているしなぁ(平成ガメラ3でも)。って言うか、「ゴジラコミック」の1か2で風忍先生が似たような設定使ってたし。
(これはGMK以前に思いついて「さらば海底軍艦 轟天号 老いの戦士たち」ってネタにしたのだが、ゴジラコミックが先だっけか…?)
「政治主導の陰謀論」は同じく小林源文が書いてるし。「怪獣はムー帝国(古代超文明)製」ってのも平成ガメラだし。
(平成ガメラ3→GMKと見ると、キャストでニヤリと出来た)
キバヤシ風に「つまり、轟天号は、古代の宇宙船をレストアした物だったんだよ!」って言ったって、「ソレナン・テナ・ディア?」と言われるのがオチ。
…って事で、目の付け所としては、「X星の第二次探検は、どうなったか?」とか「ムウ帝国の遺民は、他には居なかったのか?」ってところか(シートピアはレムリアの遺民)。キラアクの件は「フィクション」とも取れるが、そうなると「怪獣島」の設定は…?
あと、ヘドラだな。それと「霊獣設定」か。「古代人宇宙飛行士説」を安易に使うと「ソレナン・テガ・イバー」って言われるし。
とりあえずレイモンド・チャンドラーを起用して、(例の如く)「シャドウ」に絡ませるか…「メカゴジラの逆襲」の中丸忠雄先生がインターポールなので、キイハンター(小田切慎二)とも絡ませられるな(笑)。
【追記】
平成ガメラ3のキャストは見ていてチョットあれだ(例の女とか天才(?)男とか)。GMKは、「さつま=わだつみ」とか思ってしまった(サノシローがウザかった)。この後に「日本水没」(違)が来る訳だが、これのキャストもアレで、感情移入しづらかった(こっちは樋口真嗣 監督だが)。
山本陽子の垢抜けなさにビックリ。初見では気づかなかった。
ガッパの顔もグロいので、今イチ感情移入できなかったが、しかし、ミニラにたいなのもイヤだしなぁ。考えモノだ。
挿入歌も やたら感動的だし、ちょっと「良い子ちゃん向け」って感じ。
リメイクするなら、「子ガッパは餓死→親ガッパは復讐の為に日本(の観光地を)縦断→最終兵器で倒すも、その破壊力で当該地域は廃墟(数十年、汚染される)」ぐらいの話になるか?
続編として、「親ガッパが寿命→子ガッパ成獣へ→伴侶を求めて世界を放浪(破壊)→親ガッパの死骸をサイボーグ化して事に当たる」みたいなのを思いついた。
(途中が「怪物ジオラ」っぽいが)
GMKっぽい作品しか思いつかなかった…。
【基本構成】
金子修介いわく、「ゴジラ=三船敏郎(用心棒)=無敵」、「ガメラ=勝新太郎(座頭市)=再戦で勝つ」、との事。
ならば、プロットは、
「ゴジラ出現、暴れる→ガメラ登場→ゴジラ対ガメラ→ガメラ敗北→ガメラ復活→再戦→ゴジラ封印→ガメラ死亡」
しか無い。
【余韻】
「ゴジラ封印」→復活の暗示(「VSビオランテ」の「ゴジラ復活を予知する子供たち」みたいな描写)。
「ガメラ死亡」→ガメラの卵(トトorピッコロ大魔王)で再生の暗示。
【肉付け】
登場怪獣がゴジラとガメラだけでは話題性に欠けるので、「対ゴジラ連合軍」として、ガメラをリーダーとする怪獣軍団を設定。
しかし、大映怪獣はアレなので、東宝からセレクト。
(バルゴン→水に弱い、ギャオス→日光に弱い、バイラス、ギロン、ジグラ→宇宙人or宇宙怪獣、ジャイガー→ブサ)
と、なると、共演は、土着怪獣のバラン、バラゴン、アンギラスしか無い(笑)…って、まんまGMK初期案。
とりあえずマンダを加え、さらにはマンダ+ガメラで玄武になる、とか。
あー、そーなると、白虎、青龍、朱雀も必要か。朱雀はラドンとして…ううむ。
つか、白虎(?)、青龍(マンダ)、朱雀(ラドン)、玄武(ガメラ)の4体合体で黄龍になり、ゴジラ(トン)を倒す、とか?
「バラン、バラゴン、アンギラス」(と、マンダ)の地味路線で行くなら、メカゴジラ軍団とメカニコング(商標的には「メカゴリラ」か?)は必須?
(メカモゲラも?つか、元々モゲラはメカですが)
…と、日本映画専門ch(のEPG)で「ファイナルウォーズ」の文字を見て妄想してみた。
(「DC VSマーヴェル」みたいな感じで、両者の活性化には良いイベントだと思うが)
【追記】
「ゴジラ対 反ゴジラ連合」と言うと、「怪獣総進撃」のキングギドラのポジション。
と言うより、「三国志」での「トウタクVS反トウタク連合」みたいな感じ。
【蛇足】
アメコミ方式(ディケイド方式)で、「××を守護獣とする平行世界が融合→消滅を防ぐ為、元凶のゴジラを連合軍が倒す」みたいなノリでOK?
(だって、イベントだしなぁ…)
「クズすぎる。」http://getterp.blog.shinobi.jp/Entry/4340/で酷評した「小さき勇者たち~ガメラ~」だが、何がマズかったのだろうか?
それは、「子供=未来(希望)」であるはず なのに、主人公が過去(亡母)に依存している事だろう。
もうひとつ。「過去のガメラは自爆したが、今度は自爆させない」と言う部分に、主人公(子供)が絡みづらい点も上げられる。
(主人公たちは、過去の自爆を目撃していない)
(それと、「ジェット噴射で空を飛ぶ」を目撃するのは、「ガメラ(への成長の伏線)」であると同時に、「無責任な子供たち」とも取れる)
※ 以下、誤って消して(上書き)してしまったので、書き直し。原文は忘れている為、変更有り。
では、どうすれば良かったのか?
「7人のオタク」は見ていないのだが、そう言う造りにすれば良かったのでは無いか?見た映画で言うと、「少林サッカー」。「ダメ人間が再生」と言うパターンだ。
つまり、「小ガメ」の主人公を、1973年(72年?)当時の子供にする。現在はワープアで、家庭も崩壊。うらぶれた自分を、「自爆したガメラ」に なぞらえる、自虐的な人物。
その人物を中心に、「ネット難民」や「派遣切り」などのネット仲間が終結し、ガメラ再生(ジーダス撃退)に立ち上がる、と言うもの。
(その為、「今度は自爆させない=自分(たち)の再生」とも重なる。あるいは、小ガメを「自分の子供」として守る、と言う意味も)
従って、政治家(官僚?)や雨宮教授ら「エリート」とも対立。その為、自分たちがガメラに赤い真珠を送り届ける事に拘る事に、整合性(納得力)を持たす事が出来る。
(政治家か教授、あるいは自衛官を「幼馴染のライバル」にすると、話が盛り上がる)
正直、戦闘シーンを流用(「パワーレンジャー」、「ドラゴンナイト」方式)し、リメイクしては どうか?クライマックスは、新怪獣orジーダス パワーアップ、で撮り増し。
「日本の景気は二番底」とも言われているし、「日本再生」に向けて、造るべきでは?
【追記】
リメイク版の「小さい」と言うのは、主人公の器(と、価値観)で。
(「50円の器」by絶望先生)
【追記2】
雨宮を「かつてのギャオス戦(70年代)で、ガメラと共闘した子供」にしては どうか?
「かつての失敗から、今度は万全を期す→焦りからドーピングを急ぐ→ガメラに拒否反応→ジーダス接近だがガメラ動けずピンチ」
と言う展開が出来る。
また、それ(以前)に対し、「急激なドーピングを懸念する主人公」と言う対比も。
で、「前回(70年代)の失敗は、雨宮くんが鍵っ子だった事(完璧主義、協調性の低さ」)に置き換えれば、「今度はチームワーク(友情)でリベンジ」と進められる。
ファミ劇でガメラが一挙放送されたので、ついでに「小さき勇者たち~ガメラ~」も見る。
…なに、このクズ?
作品とすら呼べない。日本映画=斜陽のイメージが強いが、それでもコレは無い。
「VSキングギドラ」以降のゴジラ作品もヒドかったが、「小ガメラ」は、それよりもダメかもしれない。
正直、当時のスタッフインタビュー(監督、脚本家)を見て、「全く期待できない」と思ったものだが。
(元々、田崎竜太は嫌いだが)
1)難病モノ路線
佐々木守or実相寺昭雄だったと思うが、「リビングが出たら、そのドラマは見ない」と言っていたと思う。
それと、「難病モノも見ない」と言っていた気がする。
何にせよ、「心臓の手術?あーハイハイ、難病モノですね。お涙頂戴ケータイ小説」と、シラケた気分になる。
2)ジーダス弱すぎ
日テレG+ ジーダスが弱すぎる。平成ガメラ(3部作版)、昭和ガメラと戦ったら瞬殺されるレベル。
(事実、ドーピング 覚醒後のガメラに圧倒される訳だが)
大きさと身体能力は別として、ルックスはリアル路線まっしぐらで、「新発見の恐竜」と言われても通用する地味なモノ。
特殊能力が無い(?)のもイタい(泳ぎや潜水、ジャンプあたりは、能力的に地味すぎる。バラン未満)
(中ガメ状態のトトに撃退されるのも、弱すぎる)
歴代 敵怪獣中、最弱(群体レギオンの一体と、1対1なら勝てるか?)。
名古屋を灰にする覚悟なら、自衛隊の装備で撃退できたと思う。
(名古屋で食い止めないと、被害は雪ダルマ式に膨れ上がるので、名古屋 決戦は避けられない)
3)リアルかファンタジーか?
昭和ガメラ(バルゴン除く)はファンタジー(と言うより「おとぎ話」)路線、平成ガメラがリアル路線。
それに対して、「小ガメ」が選んだのは「中庸」(か?)。
ただ、見ている方としては「荒唐無稽」としか思えない(或いは、「ご都合主義」)。
その代表例が、ジーダスの食人シーン。
「見るな!」と、子供たちの目を塞ぐのは良いのだが、しかし、映画としては、描写が必要だろう。
(ガイラは、食人後に衣服を吐き出したし、バラゴンはニワトリ小屋を襲った)
4)バカな子供(大人=悪)
子供たちのバカな行動を見るにつけ、「脚本家(スタッフ)の頭が悪いのか、それとも、子供を見下しているのか?」と思う。
例えば、「赤いお守り(赤真珠)」を、麻美から小ガメへ移送するシーン。
そんなモン、「電話すれば」即 解決じゃないか(主人公の父親から病院へ、そして「巨大生物対策班」へ)。
それを、わざわざ「子供リレー」。もう、バカじゃなかろうか、と。
(実際の今の子供って、そんなにバカなのか?)
正直、主人公は父親すら信用していない事に なるのだが?
あと、「子供リレー」って「逆走」している訳だから、かなりの危険性を孕んでいる訳だ。
(高速道路を逆走したら、どうなるか?)
逃げる方は、命がけなのだから、突っ込んでくる子供が いれば、押しのけ、あるいは突き飛ばす ぐらいは正当防衛(緊急避難)の範疇。
「急接近する子供を回避できず、膝でカウンター→子供の頭部に直撃→鼻血ブー&脳震盪→リレー中断でゲームオーバー」も、十分 有り得る。
平成ガメラの「女性→巫女(「3」は悪の巫女も)」に対し、「(先祖返りの意味も含めて)子供たち」と言うチョイスなのだろうが、大人が活躍しなさすぎる&悪。
(政治家の秘書(?)のオーバーリアクションなんか、もう、アホかと)
とは言え、大人が居なければ、ハッピーエンドに ならなかった訳で。
(主人公の父親が、階段の障害を こじ開けたりとか)
それに、ヒロイン(?)の手術をした執刀医も、大人だろうし(JK)。
確かに、政治家(?)は、ちょっと反感を持つが、「悪人」と言うレベルでは無い。
(雨宮教授が居なければ、中ガメもパワーアップ出来なかったし)
ラストの「ガメラ確保!」も、「捕獲」レベルなら当然(覚醒後なら、捕獲されても逃げられるはず)。
【補足】
今回のようなエピソードを見ると、思い出すのが「ザ☆自演乙 ウルトラマン」のワニゴドンの話(#3「草笛が夕日に流れる時…」 )。
「生き物を飼うのは、責任が伴う」と知った、小六の春だった。
30年ぶりにファミ劇で見たが、この話は(序盤と言う事もあって)、鮮明に覚えていた(「意外と覚えている。」http://getterp.blog.shinobi.jp/Entry/2347/)。
それに対し、本作では(ジェット?噴射で飛行しているのに)「問題ない」として飼うわ、あまつさえそれ以上に成長しても隠して飼うわ…「結果オーライ」を肯定しているとしか思えない。
「作り手の無責任」と言うものを、痛感する視聴時間であった。
【追記】
自衛隊の影が薄すぎるのが気に かかった。
【追記2】
検索すると、Wikipediaでは「秀逸な記事」として選考された跡が。いや、作品のクズさと、記事の出来はイコール=じゃ無いけどねw
それと、「自衛隊が活躍していないと言うが、そう言う怪獣映画があっても良い。『ゴジラの息子』にも自衛隊は出ていない」と言う意見があった。
いや、ソレは違うだろう。
ゾルゲル島は日本の領海に無い(と推測される)から、自衛隊が出てくるはずが無い。
…と言うのはヤボだが、同じ孤島モノである『南海の大決闘』には、「赤イ竹」なる組織が登場し、私設(?)軍隊が登場している。
ともあれ、「怪獣とドンパチやるだけが、自衛隊の(怪獣映画での)見せ場では無い」とは思う。
しかし、それならそれで、キッチリ「後方活動(広報活動?)に従事する自衛隊」を描写すべき(避難誘導とか、負傷者の収容・移送とか)。
何度目だろう、このタイトル?
ともあれ、映画「二百三高地」を見て思うことは、
「名画が先か、名優が先か?」
「名画が先か、名曲が先か?」
「名画が先か、名歌手が先か?」
「名画が先か、名セリフが先か?」
と言う事だ。
※注 以下は妄想に基づいているので、そのつもりで読む事。
【「G事件」が無かったとして】
映画「ノストラダムスの大予言」は、80年代にソフト化の機運が あった。が、ドタキャンに なっている。
「ノストラ~」が封印されているのは何故か?
「封印作品の謎」によれば、「カット版での公開」で解決した訳だから、カット版のソフト化が出来ないのは おかしい。
【原作について】
映画は封印されたが、五島勉の「原作」は封印されていない。
(もっとも、「原作」とは言っても、「原案」レベルの内容である)
【責任と保障】
東宝がソフト化を拒むのは、訴訟を恐れている からでは無いか?
この「訴訟」は、被爆関係者から、では無い。
日本人 全体からだ。
もっとも「~全体」とは潜在的な数であり、実際は、もっと少ないだろう。
もう少し具体的に書こう。五島の「ノストラ~」は社会に大きな影響を与えた。
(当時、高木彬光は、それを払拭すべく、本を出している)。
映画も、それに拍車を かけている。
その結果、日本では終末思想が蔓延し、刹那的な人生を選ぶ者が増えた。新興宗教にも影響を与えている、と聞く。
従って、五島・東宝は、それら「身を誤った人々」、及び「新興宗教の犠牲者 等から訴訟を受ける可能性がある。
(社会的責任の大きさから)
では、「五島は、何故、訴えられないのか?」と言うと、それは財産の多寡からだ。
この場合、訴訟に勝つのが目的では無く、「いかに多額の金銭を得るか?」が目的になってくる。
従って、個人(五島)よりも大きな組織が先に標的になるのは必然だろう。
(つまり、「ノストラ~」を公開すると、古傷を抉られる、と言う事)
東宝は封印を続ける事で、「我が社は反省しています」と言う態度を示し、訴訟のリスクを減らしているのである。
…と、言う事で、訴訟を起こすので あれば、五島が生きている内だろう。
(あと、残っている出版社。それと…文部科学省(文部省 推薦 映画だった))
…とか考えているプロ市民が、どこかに居るに違いない…。
【参考資料】
「くま夫婦 by中央ヤンボル」の「格差社会~底辺より」http://yanboru.exblog.jp/6504652/。
↑検索ワードより。
「封印作品の謎」が本の山から出てきたので、ついでに考えてみる。
「ゴジラは差別表現では無いのか?」
と。
ゴジラの皮膚の表現については試行錯誤の末、ケロイドの表現に基づく物に決定した。もちろん、ゴジラが被爆した事を視覚で表す為だ。
この「ひばく者(ぎせい者)」が加害者に なるところに、映画「ゴジラ(1954)」の悲劇がある。
さて、東宝は、この「ひばく者」を海外に売った。その収益は、売価の10倍だった、と聞く。
その後も、東宝は「ひばく者」の主演映画を撮り続け、公開し、利益を上げた。後にはソフト化も行っている。
スペル星人を規制するので あれば、ゴジラも規制されて当然だろう。しないのは、「金の生る木を手放したく無いから」としか思えない。
…と、20年 以上前から思っている。
もとい、「少林サッカー」を観た、ディスニーXDで。
この映画、私としては珍しく劇場で見ている。「パンドレッタ」で賞賛された為だ。
(「逆襲のシャア」が余りにも退屈で途中で寝てしまった為、「以後、映画はTV(無料)で」と言うポリシーを固めた。
それ以降、映画館で観たのは「X-メン(1)」、スパイダーマン(1)」、「ウォッチメン」ぐらい)
この映画があった御蔭で、「アストロ球団」の実写版が製作されたのだろう…と思う。
(「メイキング・オブ・アストロ球団」でのキャストへのインタビューを読むと、「(本作は)少林サッカーみたい」と言う声がチラホラとあった。
おそらく、企画を説明する際、「『少林サッカー』の野球版です」と言ったのだと思うし、そう説明できた事は「判りやすさ」に繋がったと思う)
さて、今回、自宅で笑いながら見たのだが、疑問に思う点もあった。本筋と関係ない点で。
と、言うのは「衛生面」である。
本作はバイタリティ溢れる作品であるが、その宿命か、「汚い」描写もある。
例えば、末弟が卵に拘るシーン。ここでシンは「鎧の肌」に卵を投げ、矛先をかわすのだが…
「シンの(汚い)靴に落ちた黄身を すくって食べる」、
「鎧の肌」の口に入った卵に喰らいつく(ディープキス?)、
の他、「ムイの涙が顔を伝って落ち、饅頭に入る」、など、「どうかなぁ?」と思うシーンが目に付く。
(モデルが転ぶ際とか、シンがボールを蹴る際とか、「鎧の肌」が自身を誇示するシーンで舌を出すのは下品だ…とも思う)
細かい事かもしれないが、そう言う「非・衛生的な事象に大らか」な事が、「毒ギョーザ事件(混入問題)」とかの遠因になっているの かもしれない。
あと、いかにも「吹き替えました」感じで違和感があったが…何故だろう?口が合ってないとか?
(にしても、細かい部分で字幕を覚えていた自分にビックリした)
それと…思わず吹き出してしまうシーンが多いのだが…当時、よくガマンしたな、俺。
(劇場では声を立てないのがマナー)
今回は、またオタクイーンさんの「オタクイーンの「恋するネヴュラ」」http://spectre-nebura.cocolog-nifty.com/cultnight/に触発されて。
(以下、「放送VS興行」http://spectre-nebura.cocolog-nifty.com/cultnight/2006/10/post_09ce.html#trackbackより引用)
>「ゴジラ」が毎週一話完結のテレビシリーズだとしたら、どんなストーリーになると思います?劇場版と絶対違うテイストになると思いませんか?
「流星人間ゾーン」は別にして。
あれは準レギュラーでしたから。
ね。住み分けってやっぱり必要でしょ(笑)。
(以上、引用終了)
私としては、「『日本沈没』のTV版のようになるのでは?」と思ったのですが、どうもニュアンスが伝わらなかったようで。
で、オタクイーンさんが「『流星人間ゾーン』は別」と言うからには、「正義の味方路線」は無いだろう、と。
(自動的に、「三大怪獣 地球最大の決戦」以降のスタンスは却下)
(同じく、「USゴジラのアニメシリーズ」路線も却下)
と、なると、「『モスラ対ゴジラ』テイストの話が繰り返されるのではないか?」と思う次第。
…しまった、「映画と同じテイスト」じゃん!
アタマ悪ぃな、俺。
気を取り直して。
「正義の味方路線」が却下される理由は、と言うと、「ゴジラか、それ?」と言う事。
もう少し具体的に言うと、「『ゴジラ』でしか出来ないシナリオ(シリーズ)になるのか?」と言う事。
「アニソン3原則」の中に、「画面と(歌詞が)シンクロしている事」、「互換性がない事」と言う条項があります。
どこで仕入れた話か忘れましたが(※1)、「水戸黄門の代わりにウルトラセブンを出して…」と言う脚本家のセリフがありまして。
つまり、「登場人物を変えれば、差し替え可能」だと言う事ですが、それでは、その作品には相応しくないエピソードになるでしょう(※2)。
※1 多分、実相寺昭雄の「自伝風小説」の一節だったと思う。
(ちくま文庫「星の林に月の舟」P222~223)
※2 ソレ言うと、「仮面ライダー(1号・2号)」なんか、全否定できる気がする。
と、なると、オリジナリティを出すには、「ゴジラは脅威である→倒せない」と言う発想になる訳で。
(民間人や特殊兵器で倒せるなら、それは「ウルトラQ」です(※3))
従って、「日本沈没(TV版)」と同じ構図になる訳です(※4)。
※3 別に「ウルトラQ」を否定する訳ではなく、「作風」の違い。
※4 作風の引用って、思いっきり「互換性」ですが。
「日本沈没」のメインテーマは、本来、
「国土を失い、世界をさすらう。その時、日本人は、どう行動すべきか?」
と言うもの(※5)。
従って、「日本が沈没する」のは前提であり、不可避な訳です。
(これをなんとかしよう、と言うのはリメイク版の映画だけでしょう(※6))
※5 実際には、この部分は「第2部」で描写されます。
※6 ラジオドラマ版は聞いておらず、さいとう・たかおのコミック版も未読ですが。
さて、「日本沈没」は、「日本脱出」とタイトルを変更しても良い作品だと思います(あ、物を投げないで!)。
何故なら、「日本の沈没は不可避→脱出するしかない」からです。
そこで、「一人でも多く、無事に脱出させる」事が、主人公たちの目的となります。
「ゴジラTVシリーズ」を夢想した場合、「ゴジラは倒せない→いかに被害を食いとどめるか?」がメインのテーマになります。
と、なると、TV版の「ご当地沈没」のごとく、
「D G計画(小野寺)が被災地に出張り、そこでゴジラを牽制しつつ、一人でも多く避難させる」
と言う作劇になるのが自然だと思います。
従って、小野寺のケルマディックや結城のわだつみには、武器(メーザー砲)が装備されていないか、もしくは装備されていても、一時的な牽制にしか使えない、と。
G計画側の行動としては、
「ゴジラの情報を仔細に収集→行動を予測→被災地(予想地)から避難させる/ゴジラの進路を変更させる」
と言うところでしょう(※7)。
※7 普通、バラゴンのように「食料を求めて移動する(本能に従って)」のが怪獣だと思うが、ゴジラの場合、繁華街やメジャーな場所を狙う習性がある(金子版のように「怨念」と言う解釈なら、それも有り(※8 ))。
※8 従って、G計画の予想は複雑・困難になり、観光地に小野寺が出没したり(笑)。
で、毎回のカタルシスは、
「孤立した避難民を、小野寺が、どう救うか?/救われないか?」
になります。
オチ(最終回)は、やっぱり「モスゴジ」で。
例えば…(つづく?)。
このような時期に、申し訳ないのですが。
結論から言うと、「平成(以降の)ゴジラ=天災(台風・地震)」である為。「退治しきれない=再度、再々度、発生する存在」、と言う事です。
つまり、「退治できないなら、(被害を抑える為に)ゴジラの攻撃力を制御する」と言う戦法…のはず。
台風のコースを逸らす、あるいは「地震のエネルギーを小出しにし、一度に大爆発を起こさせない」と言う発想…のはずです(←演出意図としては信用していませんが)。
重要拠点や市街地への被害を食い止めるために、自衛隊やGフォースがゴジラのエネルギーを浪費させている、と考える…しかないと思います(自然環境への悪影響を避ける方が、より「人道的」だと思う)。
以下は蛇足。
本来、ゴジラは「悪役にして被害者」と言う複雑な立場でした。「日常生活に紛れ込んだ異物」として、排除(抹殺)されるのが、第1作(『ゴジラ 』)です。第4作までは、「退治する」が基本スタンスです。
第5作(『三大怪獣 地球最大の決戦 』)以降は「正義の味方」化しています(第15作『メカゴジラの逆襲 』まで)。
平成ゴジラ(第16作『ゴジラ (1984) 』)では、第1作以外の昭和ゴジラは「なかった事」にされます。
と、言う事は「退治される存在」なのですが。平成第2作『ゴジラvsビオランテ 』では、「ゴジラは海に(帰る)」と言うセリフでカバーされ、退治されないまま終ります。良いのか?(当時からツッコまれていましたが)。
平成第3作『ゴジラvsキングギドラ 』では、また設定の変更が。
これ以降は、「退治される存在」でありながら退治されないまま終わる(もしくは復活を示唆して終わる)。つまり、劇中の設定と、「ゴジラは東宝の顔(ドル箱)ゆえ、シリーズは終わらせない」と言う採算主義が矛盾していると…昭和ゴジラのアイドル化は、「シリーズ化」と言う意味では正しかった訳で。
同じ「アンチヒーロー」の中村主水(必殺シリーズ)は、毎回毎回チームは解散すれど、彼だけは生き残ります。ゴジラは怪獣界の主水なのかもしれません。
【松井ゴジラのポジションの変遷】
第2作(『ゴジラの逆襲 』)では、「抹殺する方法がないので封印」と言う方法が採られます(ここでは「被害者」ではなく「悪役」)。
第3作(『キングコング対ゴジラ 』)はコメディ色が強い世界観(「お祭り」)となっていますが、「退治する必要がある」と言う方針は変わりません。
第4作(『モスラ対ゴジラ 』)は、「昭和最後の悪役ゴジラ」として描写されています。特に、「孤島の生徒たちが危機に陥るシーン」は、泣けるほどの出来です(安い構成ですが)。
第5作(『三大怪獣 地球最大の決戦 』)では、外部(海外宇宙)からの脅威欧米列強キングギドラに対抗すべく、土佐藩モスラ (幼虫)の仲介で長州ゴジラと薩摩ラドン がチームを組みます。ここで、図式が日本地球VS欧米列強宇宙にシフトしています。ここで、「ゴジラ=日本地球の守護神」の図式が完成し、「退治される存在」ではなくなります(なお、「三大怪獣」とは、地球産のゴジラ、モスラ、ラドンの事)。
第6作(『怪獣大戦争 』)は前作の続きとしての性格が強いので「外部への抑止力」(「怪獣 」と言うよりは兵器 )として扱われています(核兵器か?)。
第7作(『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘 )…本来、キングコングを主役にしていた為、非常にゴジラらしくない…と言うか、「(南海)冒険物」としての陽性な世界観が(「赤イ竹」と言う軍事組織が、色々と悪事を働いていますが)。以降、「南海路線」が導入されます。
その後、『怪獣総進撃』、『~対ガイガン』~『メカゴジラの逆襲』は『怪獣代戦争』(と『三大怪獣~』)の焼き直しです。
『~対ヘドラ』、「南海路線」については、またいずれ(あるのか?)。
映画館、キライなんですよ。と言うか、映画そのものがキライ。
GガンダムのドラマCDで東方先生が苦言を呈していますが、映画館って無法地帯ですよね?大声を出したり、音を立てて飲食したり、ネタバレを言ったり。マナー悪いです。とてもサービス業とは思えません。スパイディの前に見たのはX-MEN(1)です。2はDVDで見ました。映画はもっぱらDVD(デアデビルとか)かCSで見ています。映画館がもっと近くで、便利なところにあれば、また事情は違うかもしれませんが。その前に見たのが逆襲のシャアです。
機動戦士ガンダム逆襲のシャアはヒドかった…途中で寝てしまうくらい。それ以降、「映画(館で)は見ない!」と誓った(がX-MEN、スパイディは昔からのファンなので観に行った)。
映画がキライな理由は、ココにある。つまり「損失補填されない」事だ。期待して観に行って、ツマラナイ作品だったりすると非常にガッカリする(しかも有料)。俳優が良くても脚本が悪ければなんにもならないし、原作が良くても監督が悪ければ、やはりダメである。映画と言うのは賭けと同じで、あまりにリスクが高い。僕はギャンブルはしない主義なので、その意味でも映画館へは行かない習慣なのである。
この点、TVは良い。タダなので、駄作でもアキラメがつく(実際には、受像機の購入費がかかるが、子供には関係ないし、僕が子供の頃は、大家さんの家へ見に行っていたから、やはりタダだったと言える)。TV番組は友達だが、映画は敵である。
ゴジラ映画は、100万人を割った映画が2作しかないそうだ。実はゴジラのDVD-BOX(除くファイナルウォーズ)を持っているのだが、購入時とても悩んだ。「平成イラナイから、半額にしてくれ!」と本気で思った。以前のガメラのDVD-BOXのように昭和と平成に分けて欲しかった(その場合、84ゴジラとビオランテは単品DVDで購入する)。
ゴジラVSキングギドラって、すごくアタマの悪い映画だし、その後も駄作(と言うか、「もしかして、これ『作品』?」と言いたい)ぞろい。こんな映画を毎年毎年、延べ100万人以上(リピーター含む)も観に行っていると言うのは、日本は平和と言うかバカばっかりと言うか…。まぁ、「祭り」だと思えば批判する事自体、無意味なのだが、それなら昭和の対決シリーズだって同じだよなぁ。「ゴジラ対メガロ」は叩くくせに、平成ゴジラを持ち上げる、と言う感覚が、まったく理解できない。ファミリー向けで採算取ろうとしているんだから、いわゆる「幼児向け」として作れば?「オール怪獣大進撃」みたいに。ファイナルウォーズなんかより、よっぽど健全ですよ。ま、東宝に言ってもムダでしょうけど。